PRESENCE #2

「それ」は常に、再現することでしか表現できない。
そもそも完全な再現すら不可能に近い。
芸術家は「再現」の代替品を創り、代替品のヴァリエーションを創る。
そこには決して満たされることのない「想い」だけが美的に表象される。
鑑賞者はその「想い」を自己流に、あるいは客観的に共感するだろう。 否、再現が完成されたとしても、満たされることはないだろう。
それは完成されたときから形骸化され、運が良ければ保存される。 否、そもそも、芸術は別のところに在る。
「それ」はマイケル・ジャクソンのパフォーマンスのように観衆を熱狂させ、
モーツァルトの音楽のように、心地よく涙を誘うように、
人々の心の中に、何の意図もなく、高速で浸透するだろう。
時代に関係なく、人間にはそのような感動が必要だ。 ”「無」からの反動により可視的になる”
”接近すると同時に同化し、「そのもの」となる”
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PRESENCE

愚劣な自己が再現したイメージは、脳内で再構築され、
そのような自己は卑下させられ、
ほんの微かな残像(それは希望の光)のみを残し、
記憶から抹消される。
残骸すら手に取ることが出来ずに、そのような自己の苦悩は始まる。 認識するためには理性が必要だが、
「それ」はあまりにも理性的とはいえない。 ある種の覚醒状態におこる、ある種の皮質的調和。 電気生理学的に調和のとれたパターン。 三人称的視点でのみアクセスできる体性感覚的イメージ。 そうしたイリュージョンによってのみ可能なイメージ。
「それ」以外のイメージでは触れることが出来ない。
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美意識

以前はよくその言葉で物事を考えていた。
だが最近はどうもその言葉に魅力を感じない。
アートは装飾に収まってはならないし、
”美”だけを求めてはいけないと思う。
美は追うものではなく、突然心の中に現前するものであると思う。

”美”という言葉でいえば、アーティストの糞と、
デュシャンの便器には決定的な違いがある。
アーティストの糞はただの糞であって、それ以上のものではないが、
デュシャンの便器は明らかに別の次元を表現している。
(単にデザインの問題ではない)
それは美意識というよりも、変容の形式であり、
極めて自然な営みだ。
そしてそれが全く新しいものとして認識される
可能性を持つことに重要性がある。

私が言いたいのは、
議論の脱線はゆるされても、レールを脱線することは赦されない、
ということである。

そのレールはいつでもそこに存在していて、
”それ”は常にそのレール上を走っている。

そしてそのレールは”そこ”に存在しているが、
”ここ”には無い。

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アンフォルメル

ゲシュタルトの絵画、あるいは絵画のゲシュタルト。

表現はすべて代替行為に他ならない。

マトリクス、あるいはニューラルパターン。

アポトーシスのゲシュタルト。
断絶の形式(秩序)。

生きなければならない。

絵画にとって重要なのはメタモルフォーシスの保存。

制作ではない。

「飛ばす」のではなく「描写しない」という心構えである。
その方向で発展の希望が”まだ”残っているかもしれない。

だが将来的には完全な終焉を迎えるだろう。

ヒトの解明とともに絵画は目を閉じる。

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なぜモーツァルトにはできたのか

それは時間的な物語を形成する「夢」のメカニズムと関係している。

人間に限らず、恒温動物は「夢」を見る。
夢を見ているあいだ、様々な音を聞き、見たことも無いような映像を目にする。
そのような経験は誰しもが持っているだろう。
記憶のメカニズムと関係している能力である。
(脳は必要なイメージを効率よく記憶し、曖昧な部分を独自に修正する)

睡眠時の夢は、アセチルコリン作動性ニューロンの活発化によるPGO波が発生している状態。
しかしそれは「無意識」の領域だ。

覚醒状態(意識的に自分をコントロールできる状態)において、
薬物なしに脳の状態をそのレベルまで誘導するのは困難である。

私の場合、意識と無意識の中間において、脳内で極めて明瞭な音楽を聴いたことがある。
(もちろん、薬物は一切使用していない)
平常の覚醒時に音楽を聴いている時よりも、一音一音を正確に分解して聞き分けることができ、
意識的に更に深く展開させ、作曲することも出来た。
(だが私には絶対音感が無いので、その音楽を記録する事が出来なかった)
聴こえた音楽は全くのスキがなく、完璧に構成されていた。
平常の意識下で自分がその様な音楽を作曲する事は不可能に近い。
まさにそれはオートマティスムで「偶然」としかいいようが無く、完全に自己を出し抜いている。


音楽に限らず、映像が可視化されることもある。
可視化された、網膜的ではない(幻覚)映像は、
精巧で美しく、どこか冷ややかであり、そして複雑だった。
それらのイメージは自分の想像力を遥かに越えていて、
自分には未知でありながら、脳によって生み出されたイメージである。

モーツァルトはその能力(明確なイメージ想起)をある程度、
自在に呼び起こすことが出来たのではないだろうか。
もしもそんな能力を身につけたら私でも四六時中、五線譜に音符を書き続けるだろう。

自由自在ではないが私も時々、脳内で音楽を可聴的に聴き、映像を可視的に見ることがある。
(単に「幻聴」や「幻覚」と片付けるには、あまりにも惜しい)
そして、それらのイメージは私の芸術欲動の源泉となっている。

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