写真を撮る行為
変身
PRESENCE #3
PRESENCE #2
「それ」は常に、再現することでしか表現できない。
そもそも完全な再現すら不可能に近い。
芸術家は「再現」の代替品を創り、代替品のヴァリエーションを創る。
そこには決して満たされることのない「想い」だけが美的に表象される。
鑑賞者はその「想い」を自己流に、あるいは客観的に共感するだろう。
否、再現が完成されたとしても、満たされることはないだろう。
それは完成されたときから形骸化され、運が良ければ保存される。
否、そもそも、芸術は別のところに在る。
「それ」はマイケル・ジャクソンのパフォーマンスのように観衆を熱狂させ、
モーツァルトの音楽のように、心地よく涙を誘うように、
人々の心の中に、何の意図もなく、高速で浸透するだろう。
時代に関係なく、人間にはそのような感動が必要だ。
”「無」からの反動により可視的になる”
”接近すると同時に同化し、「そのもの」となる”
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PRESENCE
愚劣な自己が再現したイメージは、脳内で再構築され、
そのような自己は卑下させられ、
ほんの微かな残像(それは希望の光)のみを残し、
記憶から抹消される。
残骸すら手に取ることが出来ずに、そのような自己の苦悩は始まる。
認識するためには理性が必要だが、
「それ」はあまりにも理性的とはいえない。
ある種の覚醒状態におこる、ある種の皮質的調和。
電気生理学的に調和のとれたパターン。
三人称的視点でのみアクセスできる体性感覚的イメージ。
そうしたイリュージョンによってのみ可能なイメージ。
「それ」以外のイメージでは触れることが出来ない。
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現実の再発見と芸術欲動
美意識
以前はよくその言葉で物事を考えていた。
だが最近はどうもその言葉に魅力を感じない。
アートは装飾に収まってはならないし、
”美”だけを求めてはいけないと思う。
美は追うものではなく、突然心の中に現前するものであると思う。
”美”という言葉でいえば、アーティストの糞と、
デュシャンの便器には決定的な違いがある。
アーティストの糞はただの糞であって、それ以上のものではないが、
デュシャンの便器は明らかに別の次元を表現している。
(単にデザインの問題ではない)
それは美意識というよりも、変容の形式であり、
極めて自然な営みだ。
そしてそれが全く新しいものとして認識される
可能性を持つことに重要性がある。
私が言いたいのは、
議論の脱線はゆるされても、レールを脱線することは赦されない、
ということである。
そのレールはいつでもそこに存在していて、
”それ”は常にそのレール上を走っている。
そしてそのレールは”そこ”に存在しているが、
”ここ”には無い。
アンフォルメル
ゲシュタルトの絵画、あるいは絵画のゲシュタルト。
表現はすべて代替行為に他ならない。
マトリクス、あるいはニューラルパターン。
アポトーシスのゲシュタルト。
断絶の形式(秩序)。
生きなければならない。
絵画にとって重要なのはメタモルフォーシスの保存。
制作ではない。
「飛ばす」のではなく「描写しない」という心構えである。
その方向で発展の希望が”まだ”残っているかもしれない。
だが将来的には完全な終焉を迎えるだろう。
ヒトの解明とともに絵画は目を閉じる。
なぜモーツァルトにはできたのか
それは時間的な物語を形成する「夢」のメカニズムと関係している。
人間に限らず、恒温動物は「夢」を見る。
夢を見ているあいだ、様々な音を聞き、見たことも無いような映像を目にする。
そのような経験は誰しもが持っているだろう。
記憶のメカニズムと関係している能力である。
(脳は必要なイメージを効率よく記憶し、曖昧な部分を独自に修正する)
睡眠時の夢は、アセチルコリン作動性ニューロンの活発化によるPGO波が発生している状態。
しかしそれは「無意識」の領域だ。
覚醒状態(意識的に自分をコントロールできる状態)において、
薬物なしに脳の状態をそのレベルまで誘導するのは困難である。
私の場合、意識と無意識の中間において、脳内で極めて明瞭な音楽を聴いたことがある。
(もちろん、薬物は一切使用していない)
平常の覚醒時に音楽を聴いている時よりも、一音一音を正確に分解して聞き分けることができ、
意識的に更に深く展開させ、作曲することも出来た。
(だが私には絶対音感が無いので、その音楽を記録する事が出来なかった)
聴こえた音楽は全くのスキがなく、完璧に構成されていた。
平常の意識下で自分がその様な音楽を作曲する事は不可能に近い。
まさにそれはオートマティスムで「偶然」としかいいようが無く、完全に自己を出し抜いている。
音楽に限らず、映像が可視化されることもある。
可視化された、網膜的ではない(幻覚)映像は、
精巧で美しく、どこか冷ややかであり、そして複雑だった。
それらのイメージは自分の想像力を遥かに越えていて、
自分には未知でありながら、脳によって生み出されたイメージである。
モーツァルトはその能力(明確なイメージ想起)をある程度、
自在に呼び起こすことが出来たのではないだろうか。
もしもそんな能力を身につけたら私でも四六時中、五線譜に音符を書き続けるだろう。
自由自在ではないが私も時々、脳内で音楽を可聴的に聴き、映像を可視的に見ることがある。
(単に「幻聴」や「幻覚」と片付けるには、あまりにも惜しい)
そして、それらのイメージは私の芸術欲動の源泉となっている。
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